田中角栄元総理といえば数多く残した名言と行動だけでなく、人心を掌握する術にたけていたことでも有名ですが、「田中角栄は金権政治だ」その評価があることは間違いない。
しかし世の中には金持ちが多くいる、寄付する人もいれば金貸しもいる金をばらまいたり貸したりするだけであれだけの支持が集まるものだろうか。
有名な話ではありますが、その生い立ちを見ると子供のころの極貧生活やそれに伴なったであろう借金、学業にたけていたにもかかわらず、小学校の高等科までしか行けなかったこと周りの人々から受けた恩や仕打ちなどが影響している節があると思われます。
今回は田中角栄元総理のエピソードを紹介して、その人心のつかみ方だけを注目してみます。
・部下に土下座を
ある選挙の際のエピソードですが、田中元総理は秘書の早坂さんに現金の配達人として全国を飛び回るように命じました。その際に田中元総理は「金の配り方」を次のように説明していたそうです。
「お前がこれから会う相手は大半が善人だ。こういう連中が一番つらく切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取るとき、もらうときだ」
「だからこの金は、心して渡せ。ほら、くれてやる。ポン。なんていう気持ちが、お前に露かけらほどもあれば、相手もすぐわかる。それでは百万円の金を渡しても、一銭の値打もない。届けるお前が土下座しろ」
何ということでしょう、金を配りに行った部下に土下座をさせる男、それが田中角栄という人間だった。庶民の気持ちの深い部分を理解した男過去に相当な苦しみを味わった男だと思わざるをえないですよね。
・日の当たらぬ者に少しの光を
目白の田中御殿には365日「目白詣で(もうで)」が絶えることがなく、陳情の人間だけでなく新潟の地元の人々も多く詣でてきた田中元総理は皆を温かく迎え入れては、ほんの少しでも時間を作っては応対してました。
そんなときのエピソードですが、いつも通りトレードマークのだみ声で「やあ、やあ」と挨拶して回っていたとき突然、小汚い恰好をした老婆に次のように声をかけたそうです。
「おい。そこのトメさん」びっくりした婆さんが立ち上がると
「オヤジはまだ、抱いてくれるか?」とたんに部屋中がわっと明るくなり、婆さんが顔を赤くしていると角栄はさらに続ける。
「よかった。よかった。いつまでもかわいがってもらえ。ところで、でかさない倅は、どうしてる」
「先生、こないだ1万円送ってきた」「それはよかった。バカはおだててやれ。1万円が2万円になるぞ」
このように場の雰囲気を大事にしながら、普段全く注目もされることのない一人の老婆を多くの人前で励ます。
このようなことが総理になった後でも普通にできる人間だったようです。
長く秘書を務めた早坂さんは
「人は誰でも、平和に、しあわせに暮らしたい。つつましくていいから、毎日、家じゅう、明るく過ごしたい。そう思っている。人に迷惑をかけたくない。人からバカにされたくない。できれば、一生に一度、晴れがましい思いをしてみたい。トメ婆さんは、そうした気持ちでいた。その溢れるばかりの思いを、角栄は知っていたのである。」と著書に書いています。
田中角栄頂点をきわめた男の物語 [ 早坂茂三 ]
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『人心掌握術を学ぶためには、田中角栄に学ぶのが一番だ』と多くに人が言うけれども、田中角栄元総理のセンサーはうわべのものでなく、過去の積み重ねから出来上がったもので簡単にまねできるものでは無いのではないでしょうか。
■田中角栄 その他 エピソードまとめ
・額賀 福志郎(ぬかが ふくしろう)
田中が最も重視し、頼みにしたのは「数」だった。多数派を握ることは政策実現はもとより、政局を自在に動かす力の源だからだ。選挙での勝利に特にこだわった。若手には地元選挙区を徹底的に回れと指示した。
額賀は58年の衆院選出馬にあたって田中から「有権者の3分の2と握手してこい」と厳命され、初当選直後には「2回生になるのがキミらの仕事だ」とハッパをかけられた。指導内容も細やかだった。
集会では「『私なんか手を握ってもらえない』と思っている隅っこのおばあちゃんとだけ握手しろ」。訃報があれば「初七日にも花を出せ」とも。「葬儀は慌ただしくて親族は悲しさがわからない。みんながいなくなって『ああお父ちゃんが死んだんだ』と悲しさを実感する。花はその時に出すんだ」。
・石破茂(いしば しげる)
田中の人の心をつかむすべは「天才的」といわれた。自民党幹事長の石破茂は「田中イズム」の伝承者を自任する一人だ。
銀行員を辞め、田中派の事務局員時代には「衆議院議員田中角栄」の名刺を手に「田中がよろしくと申しております」と同派所属の地元を駆け回った。学んだのは「歩いた家の数、握った手の数しか票は出ない」ということだ。
自身が初当選した61年の衆院選で、改めて実感した。地元の鳥取県内の5万4千軒を回り、得た票は5万6534だった。それから四半世紀。昨年の衆院選と今夏の参院選で、石破は「田中派流の選挙に徹すること」を自身に課した。候補者には「おごるな」「一切手抜きは許されない」と厳しくいう。
元首相、田中角栄は「人情」の人でもあった。自民党幹事長、石破茂は昭和58年9月に結婚した。仲人を頼みに行くと、田中は即座に言った。「何を言うんだ。お前にはおやじがいないじゃないか。オレはお前の親代わりとして、お袋さんの横に立ってやりたいんだ」。2年前に亡くなっていた石破の父、二朗は鳥取県知事や参院議員を務め、田中の盟友だった。
田中は結婚式に「父親」として出席、びょうぶの前で石破の母と客を一人一人出迎えた。ロッキード事件をめぐり東京地裁で懲役4年の実刑判決が出る20日前のことで、田中への批判は増幅していた。石破は「田中先生はお金だけで首相になった人ではない。思いやりや懐の深さがあったからこそ心酔する人がいっぱいいた」と振り返る。
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