田中角栄 その名言と 行動から学ぶ

・田中角栄 その名言と行動から学ぶ
田中角栄元総理といえば、数多くの名言を残しその行動の速さも伝説的の語られています。
そのあだ名だけ並べても「今太閤」「コンピュータ付きブルドーザー」「角さん」「自民党周辺居住者」「目白の闇将軍」「下町の総理」「キングメーカー」と多種多様ですね。

強大な権力を持ち、頭の回転が速く実行力が有り、庶民派で親しみがあり、党の情報に優れ金の流れをつかさどっておりかつ裏社会にパイプを持っている。そんな人物像があだ名からも浮かび上がった来ます。
田中角栄.jpg
image.search.yahoo.co.jpより
*田中角栄*
生年月日:1918年5月4日
出 身 地:西山町
死 没 :1993年12月16日 (75歳)
日本の政治家、建築士。衆議院議員、郵政大臣、大蔵大臣、通商産業大臣、内閣総理大臣等を歴任

・大蔵大臣に就任の名言 あいさつに学ぶ

そんな田中角栄元総理が44歳で大蔵大臣に就任した際に、大蔵省幹部を前にして行った有名な挨拶があります

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている
・・・・・・一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。

・・・・・・できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上。」

なんて気持ちの良い挨拶でしょう、たたき上げで権力の座をつかんだ男が超エリートたちのプライドを立てつつも、しっかりと掌握し器の大きさを示していますね。

また一方で、役人というものをいかに掌握していたかという言葉に「大蔵省の役人というのは優秀です。正しいデータさえ入れればちゃんとした結論を出してくる。」というようにいかに使いこなしていたかを思わせます。


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・田中角栄元総理の名言 お金の使い方に学ぶ

田中角栄元総理の大胆かつ繊細な無駄のないお金の使い方のエピソードがあるので紹介します。

田中派時代の事ですが、派内の若手の議員が女の不始末の清算で、今日中にどうしても100万円が必要ということになったそうです。

その議員は田中角栄元総理のもとに電話をかけ、100万円の借金を申し込んだのですが。話を半分まで聞いていた田中角栄元総理は「わかった」と一言いったそうです。30分もすると、田中事務所の秘書が紙袋を届けにきた。

その議員が開けてみると、本人が借入を申し込んだ額よりも多いなんと300万円の現金が入っていたそうです。

そして中には田中角栄元総理の筆による一枚のメモが入っていました。

一、まず100万円でけりをつけろ
二、次の100万円でお前の不始末で苦労したまわりの人たちに、うまいものでも食わせてやれ
三、次の100万円は万一の場合のために持っておけ
四、以上の300万円の全額、返済は無用である。

その若手議員は、涙しながらそのメモを読んだそうです。

その若手議員が誰なのかも気になりますが、この人心をつかむ大胆かつ繊細で無駄のないお金の使い方「約束したら、必ず果たせ。できない約束はするな。 ヘビの生殺しはするな。借りた金は忘れるな。 貸した金は忘れろ」という名言を実践してますよね。
(出典)偉人のエピソード逸話集 田中角栄のお金の使い方

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・田中角栄元総理の名言 約束と信条に学ぶ

またある時休日の東京・目白の田中邸には朝から各界、各層の陳情客が100人単位で列をなしていたというが、田中元総理は一人一人順番に陳情の内容を聞き「よし分かった」「それは出来る」「それは出来ない」とその場で陳情をさばいていった。

田中元総理が「分かった」と言ったものに関しては100%実行されたそうです、「前向きに検討します」などと言ってのらりくらりしている輩とはえらいちがいですよね。

「約束したら、必ず果たせ。できない約束はするな。 ヘビの生殺しはするな。」
まさに名言とはいえ口だけでなく行動も伴ってますね。

「人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。

それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」出典:偉人のエピソード逸話集

という発言の通り泥臭いまでに人間が好きで、またその怖さをも知り尽くしている。いま田中角栄がいたらどう判断したかなどと話題になるのは、普通の人間を普通に好きになれることを政治の原点とする政治家だったらどう判断するかということなんですね。
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田中角栄 ロッキード事件 ヤバい裏事情

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田中角栄を葬ったロッキード事件 消えてしまった児玉ルートそのやばい裏事情とは
児玉誉士夫 2.jpg
これはびっくり発言ですが、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)の中で、ロッキード事件当時、衆院議員議長秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)は、児玉氏が脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができないことについて、
「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」と発言している。

それはどのようなことなのだろうか?時間を追ってみると
田中角栄元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。

国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。

7月上旬、「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」ということなのだそうです。

平野氏は、「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」と言っている。

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・何を気付いたのか?

そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。

天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。

「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」

喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)

天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。

〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」

「何を注射するのですか」

「フェノバールとセルシンだ」

いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。

「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉

止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。

当然のごとく、 国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断された。

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・このことが真実だとしたら。

平野氏は次のように言っています。

「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」

そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘しています。

「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。
そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。」

平野氏は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。

つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。

医師団派遣はいわば機密事項だったにもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
<<週刊ポストより引用>>

当然、今となっては裏を固める証拠などあるはずもない。
しかし、周辺の思惑なり動きを推察することはできる。

児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルートを、どのような手段を使ってでも断つ必要がある人物とは。
ここまで言われれば知りたくなるのは私だけではないですよね。
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田中角栄 ロッキード事件 児玉ルート

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■田中角栄元首相のロッキード事件工作資金 児玉ルート

ロッキード事件.jpg
・ロッキード事件 消えてしまった資金児玉ルート

イスラエルと中東諸国が戦争することによって、石油の供給が不安定になったことに始まった『オイルショック』による物価上昇や1974年(昭和49)夏の参議院選挙敗北後、強い金脈と人脈を持つ、首相田中角栄の「金権政治」への批判が強まった。

加えて、同年10月発売の『文芸春秋』11月号は特集「田中角栄研究――その金脈と人脈」で、「田中ファミリー」が手がけた土地ころがしの実態を明らかにし、田中角栄首相が資産形成にあたりその地位を利用して不当な利潤をあげていたことを暴露したことで、野党などの批判は一段と強まった結果11月26日田中内閣は退陣発表することとなった。

田中内閣が総辞職に追い込まれてから1年2か月後の1976年2月5日。前日の米議会公聴会を受けて、朝日新聞が朝刊2面に〈ロッキード社 丸紅・児玉氏への資金〉という見出しで小さな記事を掲載した。

この400字にも満たない記事が、政財界を揺るがす事件に発展することになるとは、当時、衆院議員議長秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)平野氏も予想していなかったということでした。

朝日新聞の見出しに名前の挙がっていた「児玉誉士夫」氏は、右翼の大物で政界のフィクサーとして名が知られていた人物であり、当時幹事長だった中曽根康弘氏の元書生が児玉氏の秘書を務めているなど、自民党中枢との関係が深いことは知られていました。

そのため平野氏は「疑惑が広がれば政権与党を直撃すると感じた」と思う反面、「児玉氏の名前を挙げていたのも朝日一紙だけだった事もあり、特別大きく取り上げられていたわけでもないので、そこまで大騒ぎになるとは思っていなかった」という読みだったようです。

しかし意に反して各紙は連日、大きく疑惑を取り上げるようになり、通常国会は紛糾してしまい。衆院予算委員会では全日空、丸紅の幹部、角栄氏の「刎頸(ふんけい)の友」であり、米議会で工作資金が渡った先として名前の挙がった国際興業グループ創始者・小佐野賢治氏らが証人喚問の場に立つことになりました。

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・ロッキード社2つの疑惑の資金の流れ

前出の平野氏によると「朝日の見出しにあった通り、ロッキードの社からの工作資金の流れには主に2つのルートがあったそうで、

ひとつは児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルート。もうひとつは丸紅を通じて全日空に大型航空機トライスターを売り込むルートだった。

政界への波及という観点からいえば、第1の『児玉ルート』は元防衛庁長官で当時幹事長だった中曽根氏につながり、第2の『丸紅ルート』は小佐野氏を通じて田中元首相につながるものだった。

当時、ロッキード社が流した対日工作資金約30億円のうち約21億円は児玉氏に秘密コンサルタント料として渡ったとされていた。

にもかかわらず“本線”であるはずの児玉ルートは、事件発覚後すぐに、事実上、捜査の対象外になってしまった」(平野氏)というのは、児玉氏が『脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができない』ということだったようです。

結果、東京地検の捜査対象は、本命の児玉ルートは対象から外れ丸紅ルートに集中し、「角栄逮捕」の流れにつながっていくことになっていった。

ただ、児玉氏の証言が取れる状態でないということに関して、平野氏は驚くべき証言を綴っている。

「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」つまり人為的に証言ができないようにされていたというのです。
※週刊ポスト2016年8月12日号より引用
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田中角栄 ロッキード事件の真実 葬ったのは

・田中角栄 ロッキード事件の真実 葬ったのは

「ロッキード事件」の発端は、国益優先即実行の日本の首相が、アメリカという世界に君臨したい勢力の「虎の尾を踏んでしまった」ところから始まった。

その発端とは、アメリカの傘下を離れ独自に資源供給ルートを確保する事だった。

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1970年代田中角栄元総理は自ら世界を駆け回って直接交渉する「資源外交」を大々的に展開していました。石油では市場を独占しようとするメジャーを振り切ってインドネシアやソ連と交渉したり、原子力のウランではフランス、オーストラリア等と独自に手を結ぼうとした。

つまり、石油メジャーやウラン・カルテルを形成する「資源帝国」とアメリカや欧州各国の思惑、そこを突き破ろうと突進した角栄の資源戦略の結末だということらしい。

角栄の失脚はこの資源外交の報復だとも言われ、それがアメリカ発「ロッキード事件」だとされている。

しかし、これを発端に確実に葬ったのは日本国内の権力争いがあったと言われている。

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『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)の中で、ロッキード事件当時、衆院議員議長秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)は、『「NHKなどの報道は基本的に、田中角栄さんを逮捕した検察のやり方を追認、称賛するものに見えた。

しかし、私はむしろ逮捕のプロセスに大いに疑問を抱いている。田中さんは権力によって消され、真相は闇に葬られたのではないか』と、断じている。

いわゆる「ロッキード事件」とは、角栄氏が総理時代に、米航空機メーカー・ロッキード社の代理店だった丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとされる事件で、5億円は、角栄氏が全日空にロッキード社製の大型航空機「トライスター」の購入を承諾させたことへの謝礼とされている。

角栄氏は1976年7月に外為法違反容疑で逮捕され、一審と二審で懲役4年の実刑判決を受けた。そして上告後の1993年、最高裁の判決を待つことなく他界している。

その事件の発端は1976年2月、米議会上院公聴会で、突然「ロッキード社が日本政府高官に工作資金を渡した」との疑惑が飛び出したことだった。このロッキード社幹部の衝撃的な証言により、角栄氏をはじめとする複数の政治家に追及の矛先が向けられ、国会は紛糾した。

当時、国会正常化に奔走したのが衆院議長・前尾繁三郎氏であり、その秘書が前出の平野氏だった。

その平野氏が「私は『ロッキード国会』と呼ばれたあの時期に、政治家や各党の動きを記した大量のメモをとってある。この事件は米国発だが、主要な舞台となったのは日本の政府与党の内部。その熾烈な権力争いの結果、敗れたのが田中さんだった」と語っている。

政治の世界は伏魔殿というけれども、その見本のような出来事っだったのかもしれない。

いずれにせよ関係者の中から多数の不審死者が出るなど、第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった「ロッキード事件」関係者が存命のうちにさらに解明されることが必要ですね。
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田中角栄 ロッキード事件 アメリカに仕組まれた

田中角栄のロッキード事件は、アメリカに仕組まれたという説を検証

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・アメリカに退陣へと追い込まれた総理大臣

1.国際舞台でも日本の国益になると思い立ったらすぐ行動を起こす田中角栄元総理は、アメリカに事前に相談することなく中国を訪問し、日中共同宣言に署名し、日中国交樹立を断行しました。
→→日中交渉のなかでの尖閣発言

田中角栄元総理は日本のエネルギー危機回避のため、アメリカを無視して石油ショックのさなかに中東産油国との自主外交を展開しました。
→→エネルギー危機の回避策が招いた危機

田中角栄元総理は当時、米国と敵対していた旧ソ連のブレジネフ書記長に接近した。ただそれは日本の国益のための油田開発や北方領土問題の解決が目的だった。

つまるところ、これが米政府の逆鱗(げきりん)に触れた。『(米国発の)ロッキード事件で刺された』という”陰謀説”も、永田町政治史では定説だ。
出典 森田実の言わねばならぬ

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2.日本を襲った石油危機というのは、イスラエルと中東諸国が戦争することによって、石油の供給が不安定になったことに始まった。日本は今も当時もアメリカにべったりだった。

そしてアメリカは、何があってもイスラエルに肩入れしてぶれない。だから、石油危機の原因となった中東戦争の時も、アメリカはイスラエルを養護した。

当然、日本はアメリカに従わねばならない。すると、日本への石油の供給は、たたれることになる。
ところが日本の国益を考えたたぐいまれなる田中角栄元総理は、中東諸国に飛んで、アメリカの意向を無視して、日本に石油を送るよう交渉してきたのだ。

このことは、石油の安定供給という、日本の国益を守ることではあるが、結果として反アメリカを表明することになった。

後にこれがために、田中角栄は、アメリカが発祥のロッキード事件で失脚させられることになった、という説がある。

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つまり、上記2点の事実からも「ロッキード事件」の発端は、国益優先即実行の日本の首相が、アメリカという世界に君臨したい勢力の「虎の尾を踏んでしまった」ところから始まったことは間違いないようですね。
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田中角栄 名言を生みだした生い立ち

田中角栄 名言を生みだした生い立ち(ウィキペディアを参照)

田中角栄元総理といえば庶民派総理・小学校しか出てない総理とか中国では労働者から日本の総理になどと言われていた。そしてその名言の数々を生み出したその生い立ち政治家になるまでをたどってみたい。

田中角栄新潟.jpg
 *プロフィール*
田 中 角 栄
生年月日  1918年5月4日
出生地   新潟県刈羽郡二田村
没年月日  1993年12月16日(満75歳没)
出身校   二田高等小学校卒業
前 職   田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長

・小学校卒業

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれるたが、長男は夭折しており実質的には姉2人妹4人の7人兄弟姉妹のただ一人の男子でした。

田中家はもともと農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていたそうです。生活は楽ではなく母は寝る間も惜しんで働き、田中角栄元総理は「おばあさん子」だったということです。

幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入に手を出して相次いで失敗したため、家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされてしまった。

幼いころ吃音があり浪花節を練習して矯正した話しは有名ですね。。

1933年(昭和8年)、15歳で二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)を卒業。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ。

また明治大正の日本文学はすべて読んだと言われるほど読書が好きでした。

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・上 京

高等小学校卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労を見ていたから「気が進まなかった」という事です。

1934年(昭和9年)16才になった3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京することになり夢をもって上京した。

しかし東京に着いてみると書生の話は通っておらず、失意の中生きるためやむなく井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通い、その後保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いたようです。

一時は、当時の若者のように海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったようですが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えたということです。

いずれにしても、このころから常に前向きに勉学と労働に励んでいたことが見て取れます。

1936年(昭和11年)18才になった3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に19歳で独立して「共栄建築事務所」を設立することになる。

時を前後して、日比谷のビルで書生採用の一件で行き違いのあった大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことがきっかけで人格・能力を認められ、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けることとなった。

またこの頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校にも籍を置き、商事実務を学んでいた。本当に努力の人だといえる。

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・徴 兵

1938年(昭和13年)、20歳の時徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知され、1939年(昭和14年)に入営し4月より満州国富錦で兵役に就いた。

内務班で仕事ができたせいか古兵から私的制裁を受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれる存在になった。

入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)23歳の10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設

1942年(昭和17年)3月24歳の時に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚、家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月25歳の時に、事務所を改組して「田中土建工業」を設立しし、理研コンツェルンとの関係も復活、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負い、今までの努力と才能を開花させ田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[。

終戦の年1945年(昭和20年)2月27歳の時、理化学興業の工場を朝鮮半島の大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、半島に渡った。

当時から先読みセンサーの発達した田中は、8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡したそうです。

敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げ本土に戻った。幸いなことに田中土建工業は戦災を免れていた。

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・国政へ進出

1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から初めて立候補した。

1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選冷や飯を食った。

この選挙の演説で有名なのが、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説でした。信用も今一だった当時は、ただの大ぼら吹きと思われた節もあったようです。

翌1947年4月、29歳のとき日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で初当選し、

衆議院議員となったた田中角栄は、ローカル私鉄の長岡鉄道の社長 となり、公約の電化を実現したことから、地元の強い支持を受けるようになりました。言ったことは実行する、ここのころが盤石だった「新潟3区 越山会」の始まりだったかもしれない。

この 長岡鉄道は昭和50年に廃止され、新幹線の時代が到来し、上越新幹線の建設へと続いていくことになりました。

初当選以降みんながよく知る政界での快進撃が始まった下記に簡記しておきます。
衆議院議員
選挙区 新潟県第3区
在任期間 1947年4月26日 – 1990年1月24日
当選回数 16回

第12代 郵政大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 – 1958年6月12日

第67-69代 大蔵大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1962年7月18日 – 1965年6月3日

第33代 通商産業大臣
内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 – 1972年7月7日

第64-65代 内閣総理大臣
内閣 第1次田中角榮内閣
第2次田中角榮内閣
第2次田中角榮第1次改造内閣
第2次田中角榮第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 – 1974年12月9日

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田中角栄のその名言と人心掌握の実際

田中角栄元総理といえば数多く残した名言と行動だけでなく、人心を掌握する術にたけていたことでも有名ですが、「田中角栄は金権政治だ」その評価があることは間違いない。

しかし世の中には金持ちが多くいる、寄付する人もいれば金貸しもいる金をばらまいたり貸したりするだけであれだけの支持が集まるものだろうか。

有名な話ではありますが、その生い立ちを見ると子供のころの極貧生活やそれに伴なったであろう借金、学業にたけていたにもかかわらず、小学校の高等科までしか行けなかったこと周りの人々から受けた恩や仕打ちなどが影響している節があると思われます。

今回は田中角栄元総理のエピソードを紹介して、その人心のつかみ方だけを注目してみます。
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・部下に土下座を

ある選挙の際のエピソードですが、田中元総理は秘書の早坂さんに現金の配達人として全国を飛び回るように命じました。その際に田中元総理は「金の配り方」を次のように説明していたそうです。

「お前がこれから会う相手は大半が善人だ。こういう連中が一番つらく切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取るとき、もらうときだ

「だからこの金は、心して渡せ。ほら、くれてやる。ポン。なんていう気持ちが、お前に露かけらほどもあれば、相手もすぐわかる。それでは百万円の金を渡しても、一銭の値打もない。届けるお前が土下座しろ

何ということでしょう、金を配りに行った部下に土下座をさせる男、それが田中角栄という人間だった。庶民の気持ちの深い部分を理解した男過去に相当な苦しみを味わった男だと思わざるをえないですよね。

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・日の当たらぬ者に少しの光を

目白の田中御殿には365日「目白詣で(もうで)」が絶えることがなく、陳情の人間だけでなく新潟の地元の人々も多く詣でてきた田中元総理は皆を温かく迎え入れては、ほんの少しでも時間を作っては応対してました。

そんなときのエピソードですが、いつも通りトレードマークのだみ声で「やあ、やあ」と挨拶して回っていたとき突然、小汚い恰好をした老婆に次のように声をかけたそうです。

「おい。そこのトメさん」びっくりした婆さんが立ち上がると

「オヤジはまだ、抱いてくれるか?」とたんに部屋中がわっと明るくなり、婆さんが顔を赤くしていると角栄はさらに続ける。

「よかった。よかった。いつまでもかわいがってもらえ。ところで、でかさない倅は、どうしてる」

「先生、こないだ1万円送ってきた」「それはよかった。バカはおだててやれ。1万円が2万円になるぞ」

このように場の雰囲気を大事にしながら、普段全く注目もされることのない一人の老婆を多くの人前で励ます。

このようなことが総理になった後でも普通にできる人間だったようです。

長く秘書を務めた早坂さんは

「人は誰でも、平和に、しあわせに暮らしたい。つつましくていいから、毎日、家じゅう、明るく過ごしたい。そう思っている。人に迷惑をかけたくない。人からバカにされたくない。できれば、一生に一度、晴れがましい思いをしてみたい。トメ婆さんは、そうした気持ちでいた。その溢れるばかりの思いを、角栄は知っていたのである。」と著書に書いています。

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『人心掌握術を学ぶためには、田中角栄に学ぶのが一番だ』と多くに人が言うけれども、田中角栄元総理のセンサーはうわべのものでなく、過去の積み重ねから出来上がったもので簡単にまねできるものでは無いのではないでしょうか。

■田中角栄 その他 エピソードまとめ
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・額賀 福志郎(ぬかが ふくしろう)

田中が最も重視し、頼みにしたのは「数」だった。多数派を握ることは政策実現はもとより、政局を自在に動かす力の源だからだ。選挙での勝利に特にこだわった。若手には地元選挙区を徹底的に回れと指示した。
額賀は58年の衆院選出馬にあたって田中から「有権者の3分の2と握手してこい」と厳命され、初当選直後には「2回生になるのがキミらの仕事だ」とハッパをかけられた。指導内容も細やかだった。

集会では「『私なんか手を握ってもらえない』と思っている隅っこのおばあちゃんとだけ握手しろ。訃報があれば「初七日にも花を出せ」とも。「葬儀は慌ただしくて親族は悲しさがわからない。みんながいなくなって『ああお父ちゃんが死んだんだ』と悲しさを実感する。花はその時に出すんだ」。

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・石破茂(いしば しげる)

田中の人の心をつかむすべは「天才的」といわれた。自民党幹事長の石破茂は「田中イズム」の伝承者を自任する一人だ。

銀行員を辞め、田中派の事務局員時代には「衆議院議員田中角栄」の名刺を手に「田中がよろしくと申しております」と同派所属の地元を駆け回った。学んだのは「歩いた家の数、握った手の数しか票は出ない」ということだ。

自身が初当選した61年の衆院選で、改めて実感した。地元の鳥取県内の5万4千軒を回り、得た票は5万6534だった。それから四半世紀。昨年の衆院選と今夏の参院選で、石破は「田中派流の選挙に徹すること」を自身に課した。候補者には「おごるな」「一切手抜きは許されない」と厳しくいう。

元首相、田中角栄は「人情」の人でもあった。自民党幹事長、石破茂は昭和58年9月に結婚した。仲人を頼みに行くと、田中は即座に言った。「何を言うんだ。お前にはおやじがいないじゃないか。オレはお前の親代わりとして、お袋さんの横に立ってやりたいんだ」。2年前に亡くなっていた石破の父、二朗は鳥取県知事や参院議員を務め、田中の盟友だった。

田中は結婚式に「父親」として出席、びょうぶの前で石破の母と客を一人一人出迎えた。ロッキード事件をめぐり東京地裁で懲役4年の実刑判決が出る20日前のことで、田中への批判は増幅していた。石破は「田中先生はお金だけで首相になった人ではない。思いやりや懐の深さがあったからこそ心酔する人がいっぱいいた」と振り返る
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田中角栄 その名言と功罪 その2

田中角栄元総理といえば数多くの名言がありますが、その業績の功罪を検証すると・・・原発、尖閣諸島、新幹線みんな角栄さんから始まったということです。・・・それってほんとですか?

田中角栄元総理を語るうえでは、ロッキード事件の関与などに代表される金権政治がよく取り上げられますが、田中角栄元総理が首相時代に手がけた政策の中で、現在の政治・社会が抱える課題にも大きく影響をおよぼしている「日中国交正常化」についての功罪を検証します。

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日中交渉のなかでの尖閣発言

田中角栄元総理の業績といえば、なんといっても首相となって2カ月後の1972年9月に日中国交正常化を実現したことがあげられますよね。

『日中国交正常化』の研究の第一人者国際政治学者の服部龍二氏の分析・考察によると、2011年の『日中国交正常化』は国内向けには田中元総理が政権発足時に掲げた「決断と実行」を強くアピールするものになったのですが、交渉の中で「外交能力を疑ってしまう」ような場面もちらほら出てくるそうです。

たとえば、ときの中国首相の周恩来との会談中、田中角栄元総理は唐突に「尖閣諸島についてどう思うか?」と発言してしまっている。

対し、周恩来首相は「尖閣諸島について、いま話すのはよくない。石油が出るから、これが問題になった。出なければ、台湾もアメリカも問題にしない」と、議論を避けたそうです。

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・経験不足の幼稚な日本外交

尖閣諸島の問題は、1970年代に入ってから中国や台湾が領有権を主張し始めたことに端を発していますが、自民党外交調査会はこうした情勢を受けて、1972年の沖縄返還を前に、尖閣諸島が日本領であることを確認していた。

「日中国交正常化」以前に日本の領土であると確認しているにもかかわらず、唐突に尖閣諸島のことを周に訊ねたのは、日本国内の反発を抑えるためにも、言質を取っておきたかったからだと言われている。

だが、合法的に実効支配する領土について日本側から発言することは、相手に揚げ足を取られかねない。最悪、田中角栄元総理は言質を得るどころか、将来に禍根を残した可能性すらあった。

しかし周恩来首相がこの話を受け流したのは、議論をすれば収拾がつかなくなると瞬時に判断したからだろう、と服部氏は推測している。隣国・ソ連の脅威に対抗するため、アメリカや日本への接近をはかっていた周恩来首相は、領土問題を後回しにしてでも日中共同声明の調印を急いでいたということだ。…

言い換えれば田中角栄元総理は周恩来に救われたといえるかもしれないですね。

往々にして日本の政治家は国内では敏腕をふるっていても国政舞台、とりわけ外交交渉になると幼稚に見えることさえある。
普段自分の政治生命や党の事、自分への支持のこととばかり考えているせいか、伊勢志摩サミットの安倍首相のように国際舞台で稚拙な行動をとることがあるようだ。

念のため付け加えるとこの時の田中角栄元総理がそうであったのかは定かではない。

この一件からまなべることは、外交において国内政治の向けの文脈で軽々しい言動をとることはご法度、むしろ国際舞台では日本というのは島国であったせいか経験不足で下手な駆け引きも危険性が高いという教訓になるのではないかはないかということです。

確かに日中国交正常化は、田中角栄元総理の行動力だからこそ早期に実現できたのは確かで、首相に就任して2カ月後に自ら北京に飛び、5日間の首脳会談で国交正常化までこぎつけた。

服部氏も、《首脳会談で一気に進めていなかったら、交渉は長期化したに違いない。そうなれば、中国が尖閣諸島の領有権を主張するなど対日要求を強め、国交正常化は暗礁に乗り上げたかもしれない》と書いている。

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・コンピューター付きブルドーザーの仕事とは

政策のなかには早急に進めるべきものがある一方で、時間をかけて慎重に進めていくべきものもありますよね。

たとえば、田中政権の最大の目玉であった「日本列島改造論」は新幹線などの高速交通網・通信網の整備や大規模開発により、地方と大都市との格差をなくすことを目指したプランですが、本来、10年ほどかけて進めていく計画だったのですが田中角栄元総理が具体的な地名をあげてしまったがゆえに、当該の地域では土地の買い占めが行なわれ、地価が暴騰する結果を招いてしまいました。

このことは物価の高騰、ひいてはインフレの昂進をうながし、そこへ来て石油危機が起こったため、日本経済は大混乱に陥ってしまった。そうした失敗も沢山ありましたが、田中角栄元総理に対して、死後も彼のような存在を求める声が根強く存在すのは田中角栄元総理が今の政治家にはない、すばやい決断と実行でリーダーシップを発揮したからでしょうか。

ある人の評価が田中角栄元総理を非常に的確に評価していたので、引用します。

”人の評価は棺を蓋うて定まると言うが、田中角栄の場合、死後もなお評価は賛否両論、真っ二つに分かれたままだ。しかも「この行ないは功で、この行ないは罪だ」というふうに明確に分けることも難しく、前出のエネルギー政策のように、多くの業績が功と罪の両面を併せ持っていたりする。このことこそ、田中の手がけた仕事がいまなお影響力を持ち、私たちに課題を残しているという何よりの証しではないだろうか。”

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田中角栄 その名言と功罪 その1

田中角栄元総理といえば数多くの名言がありますが、その業績の功罪を検証すると・・・原発、尖閣諸島、新幹線みんな角栄さんから始まったということです。・・・それってほんとですか?

田中角栄元総理を語るうえでは、ロッキード事件の関与などに代表される金権政治がよく取り上げられますが、田中角栄元総理が首相時代に手がけた政策の中で、現在の政治・社会が抱える課題にも大きく影響をおよぼしている「エネルギー政策」についての功罪を検証します。

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エネルギー危機の回避策が招いた危機

田中角栄元総理は当時主力のエネルギーであった石油、そのほとんどを現在と同じく海外に依存しておりとりわけアメリカの国際石油資本(石油メジャー)に大きく依存していた。

その石油供給ルートをより多様なものへと転換すること、加えてエネルギーの石油依存そのものから脱却するべく原子力発電の推進に力をいれた、したがってそれに必要な濃縮ウランの確保をめざした。

そのために、東南アジアや当時のソ連を含むヨーロッパ諸国をまわり、積極的に資源外交を展開していきました。その行動力は山岡淳一郎氏の『田中角栄 封じられた資源戦略』で出版されるほどでした。

日本の生命線であったエネルギー供給源の確保は、資源のほとんどない日本にとって大変重要なことで、どこかで寸断されても補える別ルートのから安定的確保が日本のエネルギー危機回避には不可欠なことだという危機感を、1973年10月の第一次石油危機の前から持ち、具体的に行動していることから政治家としての先読み実行力ともに素晴らしいといわれています。

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・「原発は安全で、放射能漏れによる環境汚染の心配はない」という神話

原発の安全神話を信じていた田中元首相は、過疎化した地域を振興するため、積極的に原発建設を進めていった。4期続いた佐藤栄作首相の後継を狙った田中元首相が、自民党総裁選を前に1972年6月に刊行した著書がマニフェストともいえる『日本列島改造論』です。

『日本列島改造論』では、原発の建設についての次の記述があります。

《原子力発電所の放射能問題については海外の実例や安全審議委員会の審査結果にもとづいて危険がないことを住民が理解し、なっとくしてもらう努力をしなければならない。しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。
地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。
さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機械をふやすために発電所と工業団地をセットにして立地するなどの方法もあろう》

この一節を見てもいかに産業のない僻地を、何とか活性化したいというアイディアがたくさん盛り込まれています。しかしこの思いが後戻りが難しいことになるとは当時はだれも考えなかったようですね。

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・現在も止められぬスパイラル

地域振興と一体となった原発建設を行うために、田中元首相は首相在任中の1974年に「電源三法」が成立させた。この法律にもとづいて、原発の立地自治体には交付金などの形で資金が流れこみ、それが地域振興に使われるしくみができあがっていった。

だが、結果としてこの制度は、原発に依存しないと成り立たない地域を各地に生み出すこととなり、しかも交付金で地域経済が持ちこたえられるのは30年が限度とされているため、交付金が終わってしまう自治体は、破綻を避けるべく、原発を増設し続けなければならないという後戻りの難しい悪循環に陥ってしまった。

現在「脱原発」と言うのはたやすけれど、いざ原発をなくそうとしたとき立地自治体に新たな産業を育てようにももともと産業がない地域体質ゆえ、かなりの困難と時間がともなうことは間違いない。
住民は原発関連の仕事をし、交付金で自治体が成り立ち「脱原発」したけれど前のほうが良かったなどという考えも出てくることは、容易に想像できますね。

2011年の福島第一原発の事故は、田中角栄元総理が信じていた「安全神話」を打ち砕くとともに、田中角栄元総理のエネルギー政策から生まれたシステムの欠陥をあらためて浮かび上がらせたということになってしまったということですね。

またその一方で、震災直後の対応においては、「もし田中ありせば」とメディアでも注目が集まった。民主党政権の対応は後手続きであり、被災地はもちろん、日本全体がいらだちに包まれていた。

「田中イズム」の伝承者を自任する石破茂議員は「田中先生ならば直後に被災者が何を望んでいるかを素早く見抜き2割増し、3割増しで実現しただろう。そして恐ろしく批判され、真の評価は後世に委ねられたのではないか」。
このことからも、田中角栄元総理の功罪は議論することが無意味にさえ思えてきます。
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