田中角栄を葬ったロッキード事件 消えてしまった児玉ルートそのやばい裏事情とは
これはびっくり発言ですが、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)の中で、ロッキード事件当時、衆院議員議長秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)は、児玉氏が脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができないことについて、
「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」と発言している。
それはどのようなことなのだろうか?時間を追ってみると
田中角栄元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
7月上旬、「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」ということなのだそうです。
平野氏は、「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」と言っている。
・何を気付いたのか?
そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。
天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)
天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
当然のごとく、 国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断された。
・このことが真実だとしたら。
平野氏は次のように言っています。
「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」
そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘しています。
「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。
そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。」
平野氏は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。
医師団派遣はいわば機密事項だったにもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
<<週刊ポストより引用>>
当然、今となっては裏を固める証拠などあるはずもない。
しかし、周辺の思惑なり動きを推察することはできる。
児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルートを、どのような手段を使ってでも断つ必要がある人物とは。
ここまで言われれば知りたくなるのは私だけではないですよね。
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