田中角栄 名言を生みだした生い立ち(ウィキペディアを参照)
田中角栄元総理といえば庶民派総理・小学校しか出てない総理とか中国では労働者から日本の総理になどと言われていた。そしてその名言の数々を生み出したその生い立ち政治家になるまでをたどってみたい。
*プロフィール*
田 中 角 栄
生年月日 1918年5月4日
出生地 新潟県刈羽郡二田村
没年月日 1993年12月16日(満75歳没)
出身校 二田高等小学校卒業
前 職 田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長
・小学校卒業
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれるたが、長男は夭折しており実質的には姉2人妹4人の7人兄弟姉妹のただ一人の男子でした。
田中家はもともと農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていたそうです。生活は楽ではなく母は寝る間も惜しんで働き、田中角栄元総理は「おばあさん子」だったということです。
幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入に手を出して相次いで失敗したため、家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされてしまった。
幼いころ吃音があり浪花節を練習して矯正した話しは有名ですね。。
1933年(昭和8年)、15歳で二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)を卒業。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ。
また明治大正の日本文学はすべて読んだと言われるほど読書が好きでした。
・上 京
高等小学校卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労を見ていたから「気が進まなかった」という事です。
1934年(昭和9年)16才になった3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京することになり夢をもって上京した。
しかし東京に着いてみると書生の話は通っておらず、失意の中生きるためやむなく井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通い、その後保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いたようです。
一時は、当時の若者のように海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったようですが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えたということです。
いずれにしても、このころから常に前向きに勉学と労働に励んでいたことが見て取れます。
1936年(昭和11年)18才になった3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に19歳で独立して「共栄建築事務所」を設立することになる。
時を前後して、日比谷のビルで書生採用の一件で行き違いのあった大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことがきっかけで人格・能力を認められ、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けることとなった。
またこの頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校にも籍を置き、商事実務を学んでいた。本当に努力の人だといえる。
田中角栄100の言葉 [ 別冊宝島編集部 ]
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・徴 兵
1938年(昭和13年)、20歳の時徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知され、1939年(昭和14年)に入営し4月より満州国富錦で兵役に就いた。
内務班で仕事ができたせいか古兵から私的制裁を受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれる存在になった。
入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)23歳の10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
1942年(昭和17年)3月24歳の時に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚、家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
1943年(昭和18年)12月25歳の時に、事務所を改組して「田中土建工業」を設立しし、理研コンツェルンとの関係も復活、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負い、今までの努力と才能を開花させ田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[。
終戦の年1945年(昭和20年)2月27歳の時、理化学興業の工場を朝鮮半島の大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、半島に渡った。
当時から先読みセンサーの発達した田中は、8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡したそうです。
敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げ本土に戻った。幸いなことに田中土建工業は戦災を免れていた。
・国政へ進出
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金をおこなったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から初めて立候補した。
1月から地元に乗り込んで選挙運動をおこなったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選冷や飯を食った。
この選挙の演説で有名なのが、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めて佐渡まで陸続きにすればよい」という演説でした。信用も今一だった当時は、ただの大ぼら吹きと思われた節もあったようです。
翌1947年4月、29歳のとき日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で初当選し、
衆議院議員となったた田中角栄は、ローカル私鉄の長岡鉄道の社長 となり、公約の電化を実現したことから、地元の強い支持を受けるようになりました。言ったことは実行する、ここのころが盤石だった「新潟3区 越山会」の始まりだったかもしれない。
この 長岡鉄道は昭和50年に廃止され、新幹線の時代が到来し、上越新幹線の建設へと続いていくことになりました。
初当選以降みんながよく知る政界での快進撃が始まった下記に簡記しておきます。
衆議院議員
選挙区 新潟県第3区
在任期間 1947年4月26日 – 1990年1月24日
当選回数 16回
第12代 郵政大臣
内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 – 1958年6月12日
第67-69代 大蔵大臣
内閣 第2次池田第2次改造内閣
第2次池田第3次改造内閣
第3次池田内閣
第3次池田改造内閣
第1次佐藤内閣
在任期間 1962年7月18日 – 1965年6月3日
第33代 通商産業大臣
内閣 第3次佐藤改造内閣
在任期間 1971年7月5日 – 1972年7月7日
第64-65代 内閣総理大臣
内閣 第1次田中角榮内閣
第2次田中角榮内閣
第2次田中角榮第1次改造内閣
第2次田中角榮第2次改造内閣
在任期間 1972年7月7日 – 1974年12月9日
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